明治40年(1907)
新潟市医師会及び新潟市内関係 | 新潟県医師会及び 新潟県関係 |
国内他 |
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この年、前年公布の医師法に基づき、各地に医師会が設立される |
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1.8 内務省令第33号により、従来の新潟市医会は自然消滅に帰した為、新潟市医師会設立に就いて協議をなし、創立発起人15名を選ぶ。 1.31 新潟市医師会設立発起人会、15名の諸氏は規則草案及び診療規約に就いて協議する。 1月 新潟市医師会規則成る。 5月 新潟市内に初めて自動車が現われる。明治41年には自動車数は75輌、大正7年には1千256輌、10年後の昭和3年には9千144輌となる。 |
1.11 清棲家教、県知事着任。 2.7 県郡立学校医会議、学校衛生に関する事務統一を期するために県庁楼上に開会される(25校)。 8.1 北越鉄道国有となり、信越線と呼称。 9.18 高田に第13師団司令部設置。 |
3.19 癩予防に関する法律第11号公布。 3.21 小学校令改正(義務教育6年制となる)。 7.22 「一定地に公立癩療養所の設置区域」を定め、区域毎に公立癩療養所の設置を命令。 |
8.1 新潟市医師会認可される |
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県下では同時に北魚、中魚、南魚、刈羽、佐渡、中蒲、西頸、岩船の8郡医師会が設立認可された。 会長 長谷川寛治、副会長 長井千尋、幹事 中村庸、阿部玄四郎、木下文平 |